過剰な献身の底にあるもの。<実験>
月曜日から、
「相手から頼まれない限りなにもしない。もしくは頼まれてもそれ以上のことをしない」
という実験をしている。
というのも、少し知りたいことがあるからだ。
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つい相手に世話を焼きたくなる。
プリントの提出とか、論文の添削をやったりとか、レポートをあげたりとか。
感謝されることは嬉しいし、人の役に立つことは幸せだけれど
一方で「なぜ私がやらなければならないの」とも思っている。
やっていることもバラバラだけど、一つだけ共通しているのは「全て無償である」ということ。
相手に何かをしてあげることで疲弊して,「もういやだ」となるときもある。
見返りが欲しくてやっているわけではない。でも不当な扱いを受けていて都合よく利用されている気がする。
こうやってキャパシティ以上の働きを相手に与え続ける過剰な献身の底には、「自分を必要としてもらえる嬉しさ」が潜んでいた。
過去、私は優等生だった。
そして学校ではいじめにあっていた。
勉強が好きだったのもあるけれど、一方でそれが唯一生き残っていくことに必要な力だと思っていたから必死で勉強していた。
親は私に興味がなかった。いつも紙の上にある成績や新聞に載る部活動の功績など、「世間様」に自慢できる娘を欲していた。私自身に興味がなかった。
その中で,私自身に価値はなく、能力で存在を示すしかないのだと学んだ。
それでも自分に自信が無くて、能力を低く見ていた。
必要とされたい、好かれたい。その気持ちを叶えるためには能力を差し出すしかないのだと思っていた。
週7日のバイト、成績上位,そして人への過剰な貢献
嫌だと思っていてもやめられない。疲れていてもやめられない。
何かをして相手に貢献している間だけは、自分の存在を許されて肯定されてるように感じていた。
「これだけやっているのだから、生きていることを許してほしい」という気持ちが底にあることを、私は最近になって気が付いた。
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実験を始めたのは、論文の添削をしていた時だった。
google翻訳で適当に訳されたものを、私は、人が読めるように綺麗に直す。
英語を読む労力はあまり大きくない。
でも、文章能力や語学力、専門知識は私が死ぬ思いで手に入れたものだ。
大学に入ってから、やっと本当に自分がやりたい勉強を出来ているのだ。
「得意だから」と頼まれて無償でその労力を提供するのは、能力を安く買い叩く事でしかないのではないか。
過去の努力した自分を冒涜することになるのではないか。
人に好かれたい必要とされたいと思う気持ちから、自分の気持ちに背き過剰に献身をすることは、自分を少しずつ削って差し出すことで誰も幸せにならない。
眼に見えないけれど、積み重なってしまえば大事な物を失ってしまう気がする。
必要とされることは存在を感じることでもある。そして必要としてくれる人を好きになる。
相手に何かを与えた分だけ相手のことをますます好きになる。
それが今までの私の傾向だ。
なにかをしてあげなければ、相手への興味が薄れたり嫌いになったりするのか。
私はそれを知りたい。